第一次世界大戦後、フランスの植民地は大きく広がったわけではないが、自らの勢力圏を維持する事には結果として、成功した。だが、フランスも他の列強と同様に、それぞれの地域で独立闘争を挑まれていった。
フランスのおもな植民地としては、フランス領インドシナ、フランス領パレスチナ(現在のレバノン)、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、サハラ、マダガスカルが掲げられる。その中でも、独立闘争が戦間期に活発に展開されたのが、ベトナムとレバノンだった。
ベトナムでは、1925年にホー・チ・ミンがベトナム青年革命同志会を結成し、1930年、それを母体にしてベトナム共産党(間もなくインドシナ共産党に改称)が成立した。インドシナ共産党は、チャン・フーによりコミンテルン路線に転じ、徹底的な弾圧をうけながらも農村ソヴィエト政権を樹立するなど農民運動を展開した。1941年、ホー・チ・ミンを中心にフランスからの独立運動組織ベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成され、フランスとともに日本に対しても粘り強い抵抗運動をつづけた。
アメリカの植民地
1898年、アメリカは米西戦争でフィリピン独立を援助するためにスペインと戦ったはずだったのに、のちのパリ条約では2,000万ドルでフィリピンを購入、自国の植民地にしようとした。1896年以来スペインからの独立のために戦ってきたフィリピン人たちは独立を宣言したが、アメリカから11,000人の地上部隊がフィリピン占領のために派遣され、反抗するフィリピン人60万人を虐殺した。1899年1月1日にはエミリオ・アギナルドが初代大統領に就任し、その後マロロスで議会を組織してフィリピン第一共和国(マロロス共和国)が成立、米比戦争がはじまった。1901年、アメリカ軍はアギナルドを逮捕し、フィリピンはアメリカの主権下におかれ、翌年にはフィリピン組織法が制定された。
米比戦争は1913年まで続き、アメリカはフィリピン領有開始から1906年までは人民の武力闘争を徹底的に弾圧する方針をとったが、1907年開設の議会以降は、立法や行政については、フィリピン人への権限の委譲をすすめていった。ウィルソンが1912年に米大統領に選ばれたこともこの傾向に拍車をかけた。1916年には二院制議会が開設されている。
しかし、経済面ではアメリカに大きく依存した商品作物生産がすすんだため、零細な自作農は小作農に転落し、窮乏化した農民たちは反乱をくり返した。1920年代から30年代にかけては、世界恐慌の影響もあって、農村の社会不安が一挙に表面化し、1931年以降はラモス父子によってサクダル運動が展開された。サクダル運動は、アメリカの植民地支配よりもむしろ自国の大地主にむけられていた。
1934年にはフィリピン独立法(タイディングス・マクダフィー法)が成立して10年後のフィリピン独立を承認、翌35年にはフィリピン・コモンウェルス(フィリピン独立準備政府)が発足してマニュエル・ケソンが大統領に就任した。
オランダの植民地
オランダ領東インドでは、1911年に結成されたサレカット・イスラーム(イスラーム同盟)が第一次大戦期から民族の団結をうったえて植民地支配に抵抗したが、大戦後はオランダの弾圧によって力を弱めた。これに対し、同盟内の左派が中心となって1920年にインドネシア共産党が組織された。これは、合法政党としてはアジア初の共産主義政党だった。共産党はインドネシア各地で反植民地蜂起を指導するなどの活動を展開したが、これも大弾圧をうけ、ほぼ壊滅に近い状態となった。その後、オランダから帰国した留学生が独立運動を主導し、1927年にはスカルノを党首とするインドネシア国民党(PNI)が結成された。スカルノは、マルクス主義における階級闘争という考え方にはなじめず、農民のもつエネルギーを「マルハエニスム(大衆主義)」というかたちで民族解放闘争へとふりむけようとしたといわれる。
1928年にジャカルタで開かれたインドネシア青年会議では、党派をこえた青年が集まり、「青年の誓い」を採択した。そこでは、共通の祖国・民族・言語の名として「インドネシア」をえらぶことを再確認し、紅白二色の国旗が掲揚され、スプラットマン作詞作曲「インドネシア・ラヤ」が場内に流れた。オランダ当局はこれに衝撃をうけ、以後「インドネシア」の語を用いただけで演説を中止させ、集会を解散させたという。
1930年、スカルノは逮捕され、それによってインドネシア国民党は分裂した。
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日本の植民地と東アジア
ヴェルサイユ条約によって、アジア諸民族の独立が達成されない事が明らかになると、日本の支配下に置かれていた地域でも独立を求める機運が高まった。一つが、朝鮮半島で起こった三・一独立運動、もう一つが中国で起こった五四運動である。
1919年3月1日、タプコル公園から始まったこの運動は、デモ回数で1542回、延べ参加人数は205万人に上った。この運動に対して、当時の朝鮮総督府は、徹底的な弾圧を行い、5月には沈静化した。その後、光復まで朝鮮半島では大規模なデモ行動が起こることはなかった。
一方、中国の運動は、大戦中の1915年、日本政府が中華民国政府にいわゆる「対華21ヶ条要求」を突きつけたことにより、中国国内で反日感情が高まっていた。そのような環境の中で袁世凱は日本の要求を受諾した。そして、袁世凱は弱体化している中国を再建するには専制的な指導者が必要であるとして1916年皇帝となったが、蔡鍔らが護国戦争を起こし、袁世凱は国民の反発を受けて失脚し、中国は軍閥が割拠する時代となった。
ヴェルサイユ条約で日本がドイツの対中権益を承継することが判明すると、北京大学の学生を中心に講和条約の不調印を要求し、5月4日天安門広場で決起した。最終的には、民国政府はヴェルサイユ条約の批准を拒否した。
中国では、ナショナリズムを高揚する思想家、知識人が現れ民衆にも思想を広めていった。陳独秀は1915年雑誌『新青年』を刊行し、その中で胡適は白話運動を展開し、平易な中国語で思想を伝え、李大釗は社会主義思想を伝えた。魯迅は『阿Q正伝』で現状の中国人の蒙昧さを伝えたが、雑誌『新青年』は社会主義を批判する胡適と、受容する陳独秀、李大釗の対立により、1921年に刊行終了となった。
ナショナリズムの高揚を革命運動に取り込むことを考えた孫文は、1919年中華革命党を改組し、中国国民党を結成し、護法運動を展開、広東軍政府非常大総統に就任した。一方、1921年になるとコミンテルンの指導の下、陳独秀、李大釗、毛沢東らは中国共産党を結党した(中共一大会議)。1922年6月、孫文は広東軍の領袖陳炯明と対立し、広東軍政府を追われた。後に陳炯明の勢力を駆逐すると、孫文は上海でソ連のアドリフ・ヨッフェと会談し、「連ソ容共」をスローガンとした孫文・ヨッフェ宣言が発表され、第一次国共合作が進められた。
第一次国共合作のなかで、孫文が1925年3月12日肝癌で死亡すると、孫文の遺志を継いだ蒋介石は1926年、北伐を開始した。1927年上海クーデターで北伐は一旦中断し、国共分裂、国民党の内部分裂、日本による山東出兵の干渉が発生したが、最終的には、1928年国民革命軍の北京入城ならびに張学良の易幟により北伐は完了した。張学良の父である奉天派の首魁、張作霖は1928年6月4日関東軍の手によって暗殺された(満州某重大事件)。そして、1928年には孫文が提示した革命三段階の内の訓政に入ったことを宣言した[4]が、蒋介石が権力を掌握する為には、中原大戦に至るまでの国民党内部の抗争を繰り広げなくてはならなかった。
一方、中国国民党から駆逐された中国共産党は、李立三のように都市部での抵抗を試みるものもいたが、毛沢東は中国国民党の勢力が及ばない山間部や農村に解放区を築き抵抗していった。その一例が江西省と湖南省の境にある井崗山である。
世界恐慌と諸国の対応
暗黒の木曜日から世界恐慌へ
アメリカ資本の導入によりドイツ経済は復興し、イギリス・フランスへの賠償支払いが可能となり、イギリス・フランスはこれを対米債務にあてる、という循環が成立したことで、ヨーロッパ経済はひとまずの安定をむかえ、それが各国の国際協調外交の前提ともなっていた。
ところがアメリカでは1928年から工業生産が下降に転じ、1929年10月24日、ウォール街のニューヨーク証券取引所で株価が突如大暴落した。「暗黒の木曜日」である。
恐慌の背景には、投機熱(合衆国に集中した資金が土地や株式の投機に使われたこと)ばかりではなく、過剰な工業生産に大衆の購買力が追いつかなかったこと、保護貿易政策による国際貿易の低迷、農業が危機的状態にあったことなど、「永遠の繁栄」をほこりながらも抱えていたアメリカ経済の構造的な弱さもあった。そのため、恐慌は一時的な現象にとどまらず、長期にわたるものとなった。アメリカでは、多くの銀行や会社がつぎつぎにつぶれ、4人に1人は失業し、多くの農民も土地を失った。
第一次世界大戦後の各国の経済はアメリカと深く結びついていたため、その影響は全世界に及び、とくにアメリカ資本がヨーロッパから引きあげたことからヨーロッパ諸国も金融不安に陥って、かつてない大規模で深刻な恐慌となった。恐慌はその破壊的規模の大きさと期間の長さから、世界恐慌とよばれる。各国の工業生産は激減し、多数の失業者が現れた。
世界恐慌がはじまると、ドイツに投下されていたアメリカ資本がひきあげられ、1931年にはオーストリア最大の銀行クレディート・アンシュタルトが倒産し、ドイツ経済は破綻した。アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーは、31年、賠償・戦債支払いを1年間停止するフーヴァーモラトリアムを宣言したが、効果は少なかった。フーヴァーは、「不況はしばらくすれば元の景気に回復する」という古典派経済学の姿勢を貫き、国内においては、政府による経済介入を最小限に抑える政策を継続し、その一方で、対外的にはスムート・ホーリー法のもとでの保護貿易政策を展開し、平均関税率はアメリカ史上最高の水準となった。これにたいしてカナダはただちに報復関税を導入し、それがのちの帝国特恵関税の伏線となった。このように、スムート・ホーリー法は世界恐慌をいっそう深刻にさせた一因であると考えられている。
恐慌は資本主義諸国の経済をゆるがして、政治・社会全体の危機をまねき、各国は国内問題の対応に追われて国際問題への取り組みには消極的になった。1932年から開催されたジュネーヴ軍縮会議は見るべき成果もなく閉会し、国際連盟の活動も低迷した。こうした状況下で、それまでイタリアに限られていたファシズムの思想や運動が改めて着目されるようになった。