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ニューギニア島でも激戦が続いていたが

ニューギニア島でも激戦が続いていたが、物資補給の困難から、8月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点、ラバウルは孤立化し始める。一方、初戦の敗退を乗り越え、戦力を整えたアメリカ軍はこの年の11月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始する。11月にはギルバート諸島のマキン島、タラワ島の戦いで日本軍守備隊が全滅、同島はアメリカ軍に占領された。

11月に日本の東条英機首相は、満洲国、タイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示する。しかしこの年の年末には、完全に態勢を立て直したアメリカ軍に加え、イギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、中華民国軍など、数カ国からなる連合軍と、さしたる味方もなく1国で戦う上、兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍との力関係は、連合国有利へと傾いていった。

ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。同作戦の失敗により翌年、アウン・サン将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。

5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中国・成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。
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連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。

6月、最重要地点マリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに反撃し、マリアナ沖海戦が起きる。ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は惨敗を喫する。旗艦大鳳以下空母3隻、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊は壊滅した。しかし、戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のレイテ沖海戦ではそれらを中心とした艦隊が編成される。

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2009年06月25日 01:30に投稿されたエントリーのページです。

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